真面目が気になる

YouTubeを見ていて面白いなと思ったテーマは「真面目とは何か」ということ。

 

高校時代、どうしても成績でAを取りたくて、遊びにも行かず1日中勉強していた時期がある。絶対評価で90点以上取らないとAを取れなかったので、必死だった。自分では勉強しているのは苦ではなかった。むしろ、休日に寝坊して10時までに勉強の体制に入れなかったりすると気分が落ち込んでいたし、16時くらいになると「もうすぐ1日が終わってしまう」と感じてめちゃくちゃ焦っていたのを覚えている。今考えれば異常だったけれど、高3の時には明確な目標があったし、非効率な勉強の仕方をしていたのもあり必死だった。友達からもよく「真面目だね、いつも勉強しているね」と言われていた。

 

高3の卒業間近の時に、茶道の先生のお宅にお邪魔したことがあった。そこで「自分のいいところ」を話す機会があった。私は「自分のいいところは真面目なところ。いつも勉強していて、真面目すぎると言われることもあるけれど、やらないといけないと思ったことを真剣にできるのはいいところだと思う」という主旨のことを話した。その時に先生がすごく褒めてくれた。救われたのは、「いつも勉強している」と私に言っていた友達も、私の長所として賛同してくれたことだ。

 

勉強するのは自分のためで、自分を安心させるための手段だった。でも「こんなに頑張る必要があるのか」「もう少し手を抜いてもいいのではないか」と、頑張る度合いに迷うことはあった。特に、私が必死に1週間かけて勉強しているのに、テスト前日の夜に「俺これから勉強する」と言われた時には、「自分はなんでこんなに頑張っているんだろう」と思った(もともとのスペックの違いもあるし、1夜漬けでなんとかなる人はいる)。

 

先日見ていたYouTubeで印象的だったのは、「周りにさぼっている人がいるなかで、さぼらず頑張るのが馬鹿らしくなる。だけどもともと真面目な人がさぼると、さぼる自分が許せなくてつらい。だから真面目な自分を活かそうと思って頑張る」「頑張るのが楽しい。色々なことを頑張らなくてもいいよ、という風潮の時代に頑張っていることが楽しいと思えるのはすごいこと」という言葉。

最近、「無理して頑張る必要はない」「頑張らなくても大丈夫」という風潮が強くあると思う。私は間違いなくその風潮に流されていったうちの1人で、高校時代の努力はどこにいったのかと思うほど、大学以降はほぼ「頑張る」ということをしなくなった。もちろん勉強をしていた時期もあるけど、友達と遊びに行くほうが優先でいつも誘惑に負けていた。

 

「無理して頑張る必要はない」というのは、頑張る必要のないところで空回りしている人や、自分が望まない環境から逃れられない人に言う言葉だと思う。高校生の当時は、「行きたい学部に行く、そのためにオールAをとる」という明確な目標があったので、それを実現するための”強迫観念”のようなものがあった(たぶん大学受験をした人はみんな経験しているのだと思う)。まさに心に火がついたかのように、エンジンになっていた。その火を無理して消そうとするのはとてももったいないことだと思う。火はなかなか簡単につくものではないし、それだけの火が燃えるほどやりたいことや目標を見つけるのは、容易いことではない。

長くなってしまったが、そんなことを考えて、また自分の中に駆り立てるものを見つけたいと思っている今日この頃です。

最近面白いと思ったことのメモ

最近面白いと思ったこと

 

・受注生産漁

魚などの生鮮食品も受注生産が導入されるようになるのか。SDGsを名目に、消費者意識が変わっていって新しい仕組みが受け入れられるようになるのが面白いなと。

・お花人気/お花消費

とあるショップで、LINE登録をしたらお花の種をプレゼントします、と言われたので驚いた。コロナ禍のお花需要の低迷で、お花がどんどん安くなっていっているらしい。

その一方でお花を一輪だけ買う、とか個人で楽しむ消費が増えていると思う。お花のサブスクも人気があるそう。

それでこの前話していたのが、お花ってブーケよりも茎が長くて1輪だけのほうがいいですよね、って話。「映え」のために買っているのだから、茎が長いほうがたとえ一輪だったとしても映える。透明のオシャレなデザインの袋とか、カラーの包装紙とかで高級感のある感じで巻いてくれたらOK。これが一番需要あると思う。

・推しシーシャ

テレビで「推しシーシャ」なるものが紹介されていた。推し活文脈でコラボカフェとか推しドリンクなどは知っていたが、「推しシーシャ」は初めて見た。キャラクターをイメージ(キャラの好物や性格などを反映)した香りをシーシャで楽しめるそう。若い世代にシーシャは人気だし、ファンにとってはとてもいい組み合わせのようで、Twitterで反応を見てもかなり高評価だった。

そのほか、推しの色を再現して髪の毛を表現した「推しソーメン」などもあるそう。

色や香りをカスタマイズできるって面白い。「推しアイシャドウ」、「推し香水」、「推し石鹸」、「推し陶芸」、「推しドライフラワー」もよさそう。推し活の原動力はすごい

(台湾で推し広告がたくさんあって驚いた)

・布絵本

7か月の赤ちゃん用に布絵本が家にあるのだが、これがめちゃくちゃ可愛い!英語の文章が書いてあったり、ボタンやポケットの仕掛けがあったり、シャカシャカ音が鳴る素材でできていたり。細かい工夫が施されているのだが、それがとても可愛い。

布絵本をノートカバーやペンケースなどに応用するととても可愛いのでは!と思っている。今週フェルトなどの材料調達に行こうかな。

・カスタムクレヨン

たまたまInstagramを見ていて見つけたのだが、好きなように色を組み合わせて、アルファベットの形をしたクレヨンを作ってもらえるサービスがあるらしい。

どこからどう見てもクレヨンには見えない。この意外性がめちゃくちゃ可愛い!キャンドルとか石鹸にも応用できそう。

 

今回は以上です!

 

 

 

会話のキャッチボールが気になる

昨日、12人くらいの飲み会があり、大事な”解”にたどり着いた気がした。

私は大学時代から、大人数での飲み会が結構苦手だった。大人数の飲み会だったとしてもせいぜい4人くらいで話すのが心地がいいと感じていたし、なんなら2人で話していたいと思っていた。

大人数の場では、自分が話さなくても場は回るし、自分のターンでみんなの集中が向けられるのも苦手なので、それなら聞き役に徹しておこうというのが常だった。聞き役といいながら、興味のない話はあまり聞いていなかった(これも今思えば、もっと他の人に興味を持つべきだった)。そんなわけで、今でも自分が飲み会という場で前に出て話すことは多くない。

昨日の飲み会は、話のネタが豊富でめちゃくちゃ面白い同僚の人と、他社の複数人を交えた飲み会だった。そこで私はどうしても話したいネタがあって、ずっとそのネタを話す機会を伺っていた。だが、みんなよく話す話す。会話は止まらない。

私は自分の持ちネタを用意したまま、一向に話せない。今このネタを出したら話が脱線してしまうからもう少し待とう、と構えてしまったり、この文脈で話そうと思った時に次の人が話し始めて少し話題が遠のいてしまったり。そんなことを考えていたら、そのネタを話さずに会が終わってしまった。

でも、この一連をずっと戦闘態勢のまま見ていて、気づいたことがあった。それは、みんな文脈やタイミングなんてまったく考えていないということ。他人の話を聞いて思い出したことをすぐ口に出すし、文脈に関係ないネタも平気でぶっこんでくる。かと思ったら元の話に戻ったりもする。思いついたまま、どんどん話すことで話が広がっていくし、論点が移り変わっていく。

私は「今これ話す必要ないな」とすっと引いてしまうのだが、頭に思い浮かんだ時点で「どんどん話のテーブルに載せるべきこと」なのだと思った。それを提示せずに頭の中に留めておくことほど意味のないことはない。みんななんでも頭に思い浮かんだことをぶっこんでくる。会話のキャッチボールなんてよく言うが、大人数の時にはうまいラリーなんて存在せず、ボールをいろんな方向から投げ合って、たまにキャッチする、といった感じだと思う。

それにやっと気づいて、次回からは自分の中のストッパーになっていたものが少し外れる気がした。本当にやっと気づいた。。。

 

 

 

深い人が気になる

たまたまとあるYouTubeの動画で上がっていた議題が面白かったので、自分でも考えてみた。「深い人ってどんな人?」という議題。

 

わたしが真っ先に思いついたのは、1つ目は考察ができる人。2つ目はみんながなんとなく思っているけど言葉にできない(orあえてしていない)感情をしっかり言語化できる人。

 

1つ目の考察ができる人は、様々な角度から物事を考えられて、視点が多い。そして、経験やストックがある。私がパッと思いつく人が知り合いにいるのだが、その人はインプットとアウトプットのサイクルがとても早いのだと思う。誰かから聞いた話を別の場所で素早くアウトプットして、そこで出た意見をさらに別の場所で話して、、、とインプットとアウトプットを素早く行い、最終的に自分の意見や気づきへと昇華させていく。そういうネタが毎週様々に出てくるものだから、意見や気づきを日々たくさん持っているのだなあと驚く。

そのような人はギバーでもある。知らなかったことをたくさん教えてくれるし、新しい気づきを与えてくれる。(その人にとってはギブもテイクもどちらもしているのだろうが)そういう人に魅力を感じる節がある。

 

2つ目はしっかりと言語化できる人。人間は日々たくさんの感情を持つ。その感情を自己認識し、相手にも伝わる形で言い表せる人に尊敬する。

説明する対象の奥深くまで考えて、結局は1つ目にも述べたように考察しながら、何に喜んだのか、何に悲しんだのか、何が好きなのか、嫌いなのか、内なるものを捉えて説明できる人は自己が確立している気がしてとても魅力的だと思う。

 

というのをふと思ったので書きました。

考えると伝えるは自分の中で永遠のテーマな気がする。この2つが重要だと考える節が強いかも。

本当は自己目線のものだけでなく、周りの人への優しさ等も深い人の定義として述べられるものだとは思うんだけど、YouTubeで意見が出てくるまでまったく思いつかなかった。。やっぱり私は自己意識が強いみたいです。

 

師の教えが気になる

ようやく書道が終わった。長い戦いだったので、安堵感が大きい。

 

打ち上げの席で、先生が仰っていて印象的だったことがいくつかあった。

一つ目はコミュニティについて。「コミュニティが沢山あるほうが幸せだとは言わないけど、コミュニティがいくつかあるというのはいいことなのではないかと思う」

まさに、私の場合は会社以外のコミュニティを持つために書道を続けている。自分より4.50歳上の人たちと対等な関係性でいられるというのも、貴重なことだ。みんな体力的にも精神的にも大変な思いをしながら書いているけど、それを分かち合いながら取り組んでいる。私にとっては異様であり、重要なコミュニティだ。

 

2つ目はセンスの客観的な伝え方について。一般的に芸術は「見て学べ」「センスを習得しろ」と言われるけれど、「力強い」「趣がある」といった言葉はすべて主観的なもの。教師として、センスを言語化する必要が出てくる。例えば「線は5センチ左に」「右上は余白を空ける」など、客観的な言葉で、誰にでも共通する尺度で示す必要がある。こうした言語化能力が、センスを伝え養うには重要だ、という話。

 

3つ目は枠を超えるということ。

先生はお手本を書く際に「こんな書き方もあるのか」と、生徒が驚くような書き方をわざとすると仰っていた。生徒が細い文字で綺麗に書こうとしているような場合には、先生は思いっきり太い字で書く。綺麗に計算して書いているような場合には、思いっきりバランスを崩して書く。

たしかに、先生にお手本を書いてもらうたび、毎回感嘆する。上手いとか美しいとかでもなく、驚くというのが近い。今まで思っていた正解と全く違う正解を、「こういう書き方もありますよ」と見せてくれるわけなので、一気に世界が広がる。私はその瞬間が好きだし、ワクワクする。

一方で、私は先生の字が好きだけど、題材やその時のテンションによっては「もう少し違うように書きたいな」とか「ここは好きだけどこの部分はなんか違うな」とか、自分の好みに照らし合わせてしっくりこない時もある。その時は先生のお手本を参考程度に、自分なりに試行錯誤する(そうして一周まわった後、結局先生のお手本の書き方に戻る時もある)。

つまりはお手本を与えられてもなお、それ通りに書こうとしないこと、さらに枠を超えて考える必要があるということだ。私が心がけていたことを、先生も仰っていたので安心した。

 

ひとまず、約2か月間の戦いはおわり。お疲れ様でした。

 

 

AIに代替できないものが気になる

AIの発展を見ていて思ったこと。

作業はAIに代替される。仕事で頑張ってる資料作成なども、いつかはAIに任せて、作ってくれたものを微調整する、といった形になるんだろうなと思う。

ただ、書道は大体できないな、と思った。書道の作品作りが大変だということを話していたら、彼氏が冗談半分に、「フォントでいいじゃん」と言ってきた。そういうことじゃない、と反論したのだが、ふと反論を真剣に考えると、書道の「瞬間性」がAIが生成するものに決して代替できるものではなく、自分自身もその瞬間的で偶発的な成功に魅力を感じているのだと思った。

理想の形を頭に入れて、形、線の長さ、太さ、筆の向き、筆運びのスピード、あらゆる要素を考えながら書いているのはもちろんだが、その上で瞬間的な偶然が必ず発生する。たまたま線が潰れずに白い余白ができたとか、たまたまかすれが上手くいってかっこいい最終画になったとか、そういった瞬間的なものを求めて、期待をして、何枚もの紙に向かう。「次書いたらうまくいくかもしれない」と思えるのだ。

書道は作業じゃない。作品を作るまでの工程に意味があり、決して計算で作られるわけではない瞬間的な偶然に魅力がある。AIの発展を見ながら改めて価値を認識できた。

 

1人時間が気になる

最近の課題は「1人時間の使い方」。

私はもともと1人で過ごすのが苦手。数年前は1人でカフェに行って、勉強をしたりSNSをしたり好きに過ごすことが多かった。でも1日中そんなことをしていられるわけもなく、他の人と過ごす時間がないとつらかった。最初は1人時間を謳歌しているのだが、数時間経つと、誰かと会いたくて仕方なくなる。たぶん、インプットだけでなく、友達と話すといったようなアウトプットがしたくて、1人で長時間いると無性に誰かと話したくなるのだ。1人でいる時間が無意味にさえ感じられる。

仕事がもう3年近くリモートワークなのも影響しているかもしれない。日中誰にも会うことなく、誰かからの目を気にすることなく1日を過ごす。そんなことを続けていると、自分の外への広がりを求めたくなる。

かといって、毎日誰かとの予定を入れ続けるのも疲れてしまうし、突然友達を誘っても予定が合う確率は少ない(結果、気の許せる友達に急な失礼な誘いをすることになってしまう。。)この「1人時間」と「誰かといる時間」のバランスをいかにとるかがここ数年の自分の命題だと思う。

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こんなことを考えてしまうのは、実は今自分の中に制約があるから。4月末に書道の作品提出やフルートの演奏会が控えており、やらなければならないことがたくさんある。だけどやる気があまり起こらず、取り組めずにいる。。重い腰がなかなか上がらない。いっそのこと、「やらなければならないぎりぎりの時」が来るまで待とうと思うが(追い込まれたらやるタイプなので)、私のタチが悪いのは、やらない間も「やらなきゃやらなきゃ」と思ってしまうこと。どうせやらないのなら思いっきり遊んでしまえばいいのだが、やらなきゃと思って悩んでやらない、という性質。非効率とストレスの塊のような人間だ。

やっぱりこの性質を改めないと。コツコツやる時はやる人間か、やる時がくるまでしっかり遊ぶ人間か、どちらかにならないといけない笑

みんなは何かに取り組まなければいけない時、どのような意識でいるのだろうか、、。

 

話が逸れてしまったが、1人時間の過ごし方の理想を書いておきたいと思う

・やらなければいけないことのリストアップ/スケジュール作成(美容系や病院の予約、買い物、習い事の日程調整)

・行きたい場所/やりたいことのリストアップ/スケジュール作成

・ほしいものの情報収集

 

こうやって考えると、なんだか欲が多くて忙しいな、、

こういうスケジュールを立てて、ひたすらこなしていく感じになってしまうのです、、。

みんなそんなもんかな。。。

取り留めもない話になってしまいましたが、今日はここまでにしておきます。