与えることが気になる

与えることと尽くすことの違い。

何の気なしにInstagramを見ていたら、この言葉が書いてあったので目が留まった。その投稿曰く、与えることと尽くすことの違いは、相手に見返りを求めているかどうか、らしい。

 

昨夜、彼の家にケーキを持って行った。最初は私が食べたくてLINEでねだっていたけれど、言うことを聞いてくれそうにもなかったし、ケーキを2人で食べられれば本望だと思い、結局私が買った。渋谷の商業施設の地下で目に留まったフルーツケーキを買って、えっちらおっちら彼が住む駅に向かった。

駅の近くで夜ご飯を食べようということになり、ケーキを片手に持っていたことを思い出した私は「そういえば、ケーキ買ってきてあげたよ」と何の気なしに言った。そしたら「買ってきてあげた」という言葉につっかかられて、「買ってきてもらってあげた(?)」というわけのわからない反撃をくらった。そういうやりとりはわりと頻繁に起こる。彼が私に何かを「買ってきて」とお願いし、「買ってあげないこともない」と答えると「買ってあげてあげてもいい」とかまたしてもよくわからない使節動詞を使われる。

 

本題に戻ると、「買ってきてあげた」という表現は言った本人は相手を思いやっていることに変わりないのだが、受取り手からすれば、思いやっているようには到底聞こえない。与えているように見えて、何か見返りというか、「私があなたのためにした」ということを見せびらかし、貸しを作るようなニュアンスになる。私からすれば、別に何の見返りも求めずに「与えている」はずなのに、だ。

「与える」という気持ちが伝わるような言い方を考えると、自由意思(英文法のようなワードだが)の伝え方になる。「私があなたに与えたいから買ってきました」という言い方だ。「与える」とは「与えたいと思うこと」なのだ。

以前読んだ「愛ということ」という本の中に、「愛は与えらえるものではない。与えるものだ」と書いてあった。愛は与えるものということはわかっているはずなのに、こんなに些細なことでも「与える」の意味を理解できていなかったと感じた。与えた気になって、与えているように思われていないのかもしれない。(そんな壮大な話でもないのだけど)

 

昔、中学生の頃に、階段でおばあさんが重そうな荷物を持っていたので、「荷物持ってあげましょうか?」と声をかけた。「大丈夫よ」と断られたけれど、後になって、上から目線な言い方だったな、と反省した。急にこの時を思い出した。

 

与えたいと思う気持ちを大事にしたい。そして、対等に、与えよう。